悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想

 元本は手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日新聞社・1969)なんだけど、手に入らなかったので復刊本(毎日ワンズ・2009)から。この本は他にも数社から出ているんだけど、異本全部確認できない。書名だけ刊行順に並べておきます。
毎日新聞社 1969
・大和書房 1979(「手塚治虫自伝 1」という副題あり)
・大和書房 1988(「新装版 : 手塚治虫自伝 1」との表記あり)
角川書店 2000 (角川文庫)
・毎日ワンズ 2009
 だいたい10年ごとに出直してますね電子書籍になるとどうなるんだろう。
 それはともかく、引用ページはp187-192

PTAよ、ゲバルトを!
 
 S社の編集長のN氏は、早大文学部出身のサルトル信者で、骨の太い編集方針を打ちだして誰からも尊敬されていた。このN氏が、あるとき、ぼくに、手塚ワンマン劇場みたいなものを月刊誌の別冊に毎月つけたらどうかと思うが、描く気はあるかと、訊いてきた。もちろん、ぼくは、ファイトを燃やし、「ライオンブックス」と銘打って読み切り漫画を毎月三十ページ前後ずつ描いた。ここぞ腕の見せどころだったが、同時にぼくの悪質な欠点を総花的にぶちまける結果となった。つまり、締め切りを極端に遅らせるは、描いている途中で行方不明になるは、映画へは黙って行くは、代筆者に任せるは----。
 その結果、一年足らずでこの試みは中止になった。まず、なによりも読者の反響があまりよくないことであった。そのころ「赤胴鈴之助」がラジオ放送と共に、グッと人気を上げてきたときでもあり、五味康祐氏、柴田錬三郎氏の小説などと共に“剣豪もの”がアピールしだした時代でもあったので、まだろくに読者もいないSFものなどを毎月描いたのでは、一般の子供は敬遠して飛びつかないのも当然と言えよう。「緑の猫」「白骨船長」「狂った国境」「複眼魔人」「くろい宇宙線」といったSF短編は、ほとんど話題にもならず忘れられていった。
 一年ほどたったある日、N氏がぼくに、
手塚さん、売れてますよ、あなたの『ライオンブックス』が!
 と言った。いまごろなにごとだと、けげんな気持ちでよく訊いてみると、
「盛り場の大道で、ゾッキ本を売ってるんです。うちの返本もゾッキに出ていて、『ライオンブックス』もあったんだ。そいつが、またたく間に売れちまった」
 どうせ、そうでしょう、ゾッキ本で売れりゃ結構でさ、とぼくは内心フテクサレた。
 だが、このシリーズは、七、八年たってから再評価され始め、ことにSF関係者には、このシリーズによってSFに目覚めたという人が多いと知ったので、ぼくはやっと面目をとりもどした。
 ところで、このシリーズのうちの「複眼魔人」という物語の中で、たまたま何の気もなく男装の麗人を登場させ、彼女が個室に閉じこもって着替えるシーンを描いた。さーっとスラックスを脱ぐ、もちろん絵は臑から下である。またもやN氏が飛んできた。
「弱っちまった。Iデパートで、うちの本が不売の宣告を受けちまいましたよ」
「売らないんですか? どうして?」
「それが、言いにくいんだが、どうも----手塚さんの例の絵が問題になりましてね、ひっかかったらしい」
 Iデパートの書籍売場には、評論家や児童文学者でつくられた良書推薦委員会のようなものがあり、ここで「悪書」の烙印を押されると、たとえ有名出版社のものでも、槍玉に上がるのだった。
「そんなばかな!」
 と、抗議したが、はじまらない。とうとう、Iデパートには、その本は出なかった。
“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、
「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突然死という概念に慣らしているからである」
 と言うのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやり方であった。
「一ページの中にピストルが十丁、自動小銃が二丁も出てきた」
「文字がほとんどない。あるのは、ヤーッ、キェーッ、ドカーンといった音や、悲鳴ばかりである。これでは、読書教育上まったく有害無益である」
「絵が低俗で、色も赤っぽい。こういうものを見せられた子どもは、芸術感覚が麻痺し、情操が荒廃する
「うちの子供は、漫画の××××を読んでそのセリフを真似し、主人公になったつもりでへんな遊びをします」
「漫画は退廃的だ。追放せよ」
「漫画を子供からとりあげ、良い本を与えよう」
「漫画を出している出版社に抗議文を手渡し、漫画家に反省を求めよう」
 これらの論旨は、いちいちごもっともである。だが、なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である。しかも、それは戦後、アメリカや資本主義国家だけでなく、ソ連などにも通用する傾向である。
「なぜ、子供は、それほど漫画が好きなのだろうか?」
 ついに岡山のPTAでは、エロ雑誌などと共に漫画本が、火で焼かれた。魔女裁判のような判決であった。全国的に漫画批判運動が活発化し、不買同盟や自粛要求が呼びかわされ、とうとう、児漫長屋(注:手塚治虫が参加していた漫画創作集団)は総員が集会を開いて、対策を話し合った。だが、お互いに「良い漫画を描くよりしかたがない」とは話し合っても、その具体的方法がわからない。いったい、「良い漫画」とはなんなのか? それは、父兄や教育者にとって良い漫画なのか? それとも子供にとってなのか? もしくは、父兄や教育者に、それでは「真に良い漫画」を選ぶ権利や方法論があるのか?
赤胴鈴之助」が良い漫画だ、と言う奥さんが多かった。理由を訊くと、赤胴鈴之助」は親孝行だから、と言うのである。こんな理由で漫画をより分けられてはたまらない。第一、そういう奥さんに訊いてみると、「『赤胴鈴之助』以外はよく知りません」と答える。その「赤胴」すらも漫画は読まずに、ラジオで知ったのだという。
 こういう人たちが、口角泡を飛ばして漫画がどうのこうのと言うのを、黙って聞かなくてはならないのはやりきれない。したがって、一ページにピストルが何丁という程度の資料しか出てこないのだ。
 ときには、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
 この矛盾----そして、漫画はとりあげられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそり隠れて読む現実----。
 おとなと子供の隔壁を、これほど如実に証明したものはなかった。おとなは、あきらめから驚嘆のムードとなり、
「子供がこんなに漫画を好くのならしかたがない」
 というあきらめから、
「勉強にさしつかえない程度、おやつとして見せるくらいなら、まあいいだろう」
 という向きまで現われた。
 これが昭和三十五、六年ごろである。
 このムードは、若手漫画家たちの絶好のチャンスだった。
 どぎついアクションものや、少女恋愛もの、残酷ものが、誰はばかることなく堰を切ってどっと出回った。
 だが、このころには、正面切って、おいそれと非難するおとなはいなかった。中に、どんなものかと読んでみる人がいる。するとなかなかにおもしろい。
「むすこの読んでいる漫画をとりあげて、ちょっと覗いたんだが、結構読ませるじゃあないか。おれたちが読んでもおもしろいよ、うん」
 と喜んでしまって、子供漫画をおとなのほうがおもしろがるといったおかしな現象が起きた。
 いまでは、おとなが子供漫画を「芸術論」風に分析したり、批評したりして喜んでいる向きもある。おとなが子供のおもちゃをとりあげたように。
 それを思うと、昭和三十年当時は、まったく厳しかった。あわてふためいて、いわゆる「良心的漫画」を描こうとし、子供からそっぽを向かれて、消えてしまった仲間がずいぶんいる。
 ぼくは、現在こそ、野放しの漫画が非難され、弾劾されるべき時期だと思うのだが、あの当時の鼻息の荒い連中はどこへ行ってしまったのだろうか? まるでコウモリのように、言を翻して漫画の効用を述べる人たちなど、子供を守る強い意志があるのだろうか? ぼくらは、なまじ子供漫画芸術論をふりかざして擁護してもらうより、いま一度、子供漫画のルネッサンスを期待して、徹底した批判を受けたい
「世の父兄よ! 教育者よ! 漫画を糾弾せよ! いまこそ、ゲバルトの必要なときだ!

 …ごめん、ラストの一文、何を言ってるのかよく分からない。ゲバルト=Gewalt=「暴力」を意味するドイツ語、なんだけど、1960年代末には別の意味もあったですかね。
「S社の編集長のN氏」って、ライオンブックスは1956-57年連載なんで、多分集英社の少年ジャンプ初代編集長の長野規氏かな? でも長野氏、ウィキペディアによると早稲田の政治経済学部卒だから違うかも。ジャンプ編集長、3代続けてN氏なんですが(余談)。
 さらに、手塚治虫・漫画業界が言われたとされること(「一ページの中にピストルが十丁」云々)の原典が分からない
 日本で最初に漫画を焼いた(焚書)は「岡山のPTA」ということが、手塚治虫のこの本を出所にあちこちで言及されているみたいだけど、「いつ」「どこで」「どんな本が」焼かれたのか、とんと分からない(岡山の地方新聞読まないと駄目? 超難儀!)。「焚書」に関しては、いくつかの記録(新聞記事)はあるんですが、その3つが分かるテキストなかなか見つからない。ぼく自身は「どんな本が」というのがとても知りたいのだけれど、未だにそれに関する資料が見つからない。ネット上では「校庭で」燃した、という伝聞情報もあるんだけど、どこの小学校で、どういう団体なのか皆目不明
悪書追放運動/ 同人用語の基礎知識

 前後して、1955年2月27日投票 第27回衆議院選挙、1956年7月8日投票 第4回参議院選挙の選挙戦では、一部の女性らが小学校の校庭にマンガ本を積み上げ、手塚治虫らの漫画本に火をつけて燃やすパフォーマンスを展開、焚書だとして大きな社会問題になります。

 なお1955年、『鉄腕アトム』も燃やされた、という記述が一部に見られますが、『鉄腕アトム』の単行本はその時点では存在していません。1956年6月に初単行本なんで、1956年にはちょうど燃やし時かもしれないけど。1955年に焚書にされた可能性が高いのは、「少年」1955年1月号付録「電光人間の巻」かな? 石森章太郎石ノ森章太郎)ががしがし自分の絵で描いたという有名な奴。
 孫引用だけど、『マンガ家入門』(秋田書店・1965年)より
トキワ荘物語その34 - 大川瀬萬画倶楽部 トキワ荘の漫画家の大好きな方集まれ

ぼくは高校生です。夏休みは間近で、期末試験がすぐ目の前にせまっていました。

 正月の付録を7月ごろに描くなんて、ずいぶん早くね? 雑誌発売は年末(1954年末)だとしても。
 なお、ぼく自身は「校庭で漫画を焼いた」というのは都市伝説なんじゃないかと思います。どこかで誰かが漫画本を含む俗悪本・雑誌を燃やしたのは多分本当。
「悪書追放運動」の「焚書」に関しては、個人的には関係者の証言を求めたいぐらいの勢い。1955年当時20代だったお母さんは今80代なんで、かろうじて生きてると思う。
「ラジオで知ったという「赤胴鈴之助」が良い漫画だ、と言う奥さん」も本当にいたんですかね? 手塚治虫氏の証言はいちいち裏取っていかないといけない気がしてしょうがない。
 A・E・カーン氏の『死のゲーム』に関しては、またあとで言及するかもしれない。
 
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