司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか

これはもう、都市伝説というか都市伝聞を見るような気持ちですが。
たとえばこんなの。
司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界 【パネルディスカッション】(6)

鹿島茂 さっき、司馬さんが戦車兵だったということが出ました。歴史エッセーだったと思いますが、戦車兵の思い出を書いています。本土決戦に備えて、訓練していた。もしアメリカ軍が上陸して本土決戦になった時に、道に民衆があふれたらどうするのですかと上官に尋ねたら、上官がそんなものひき殺していけと言った。
それが自分の原点の一つになっているということを書いています。司馬さんがそれ以来ずっと考えていたことは、何で負けると分かっている戦争を始めたんだという、この疑問になるわけですね。

そのような事実は確認されていません。
一応、似たような事実は確認されています。
ただし、司馬遼太郎さんがそのようなことを聞いた、という記述以上のものは確認されていません。
うろ覚えでパネルディスカッションで話すのは、これはまぁ仕方ないとは思いますが、ネット上のテキストはある程度直しておくといいと思います。
まず、「言った」と司馬遼太郎さんが言っているのは、「上司」「上官」ではなくて「参謀少佐」です。
もう、これはあちこちのサイトで「間違った伝聞」になっているわけですが、
司馬遼太郎 上司|上官 戦車 轢き|ひき - Google 検索
ネットで誰でも見られるものとしては、こんなのがあるわけです。
月刊「正論」・2002年4月号読者投稿欄

☆編集者へ=長野県東部町の奥村直さん(画家・67歳)から。
三月号、「NHKウオッチング」で中村先生が、教育テレビ〈人間講座アンコール〉の「司馬さんと昭和史」について厳しく批判されています。陸軍参謀の「避難民を轢き殺して行け」といったという司馬証言について、又聞きなのか直接体験か、と鋭く迫っておられます。
そこで私の手持ち資料を調べてみました。司馬氏の随筆「石鳥居の垢」の中に、まさに司馬氏自身の体験として、しかも氏自身の質問に対する直接の返答として記されていました。氏の質問に対してその参謀は−−しばらく私を睨みすえていたが、やがて繡然と、「轢っ殺してゆけ」と、いった−−とあります。
まさしく司馬氏自身の「体験」として語られています。これは昭和四十九年、新潮社から刊行された司馬遼太郎著『歴史と視点』に収録されています。
そして中村先生は、草柳大蔵氏の「同じ戦車群に配属されていた将校や下士官たちから、『そんな言葉は一度も聞いたことがない』との反論が出て云々」という一文を引用されていますが、これについても資料があります。昭和五十八年八月の中央公論社『増刊・歴史と人物』誌に「座談会 もしも本土決戦が行われたら」が掲載されています。その中で司会の秦郁彦氏が司馬氏の「轢っ殺して行け」説を紹介したところ、近藤新治氏(元戦車第二十八連隊中隊長)が「司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当たったけれど、だれもこの話を聞いていない」と答えています。
近藤元大尉は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです」ともいっています。確かに旧帝国陸軍軍人として、ましてや誇り高い戦車隊将校として、聞き捨てならぬことと問題になったのは無理からぬことです。
私は司馬氏の随筆「石鳥居の垢」を二度と読む気になりません。もちろんここに記されたことが事実かどうかはわかりません。また、ある意図をもって執筆されたのかどうか勘ぐるのも失礼でしょう。ただひとついえることは、この僅か数行の文章が誠実な旧戦車隊員を傷つけたという事実です。

(太字は引用者=ぼく)
それから、こんなのとか。
月刊「正論」・2002年7月号読者投稿欄

☆編集者へ=神戸市の大西秀明さん(官能SF作家・41歳)から。
司馬遼太郎氏の「轢っ殺してゆけ」のエピソードが問題になっている。しかもエピソードだけがひとり歩きしている。在野の司馬ファンとしては納得がいかないので、私も参加してみたい。
このエピソードは、「歴史と視点・新潮文庫」に収録の「石鳥居の垢」と、「歴史の中の日本・中公文庫」に収録の「百年の単位」に書かれている。前者は主観的記述で、司馬氏本人が参謀将校に質問している。後者は客観的記述で、「ある将校」が質問したと書かれている。
さて重要な点だが、「轢っ殺してゆけ」のエピソードは、司馬氏の創作の出発点ではないことだ。「石鳥居の垢」の最後の一行には、「もっともそれは思い入れで、そういうものでもないかもしれない」と書かれている。
このエピソードは、軍隊時代の思い出の中のひとつにすぎない。過大に評価するのは間違いだし、ましてや創作の原点のように扱うのは、司馬氏の本質を見失うことになる。
司馬氏がこのエピソードを書いた目的はふたつある。第一には、大本営の参謀が、机上の空論で本土決戦を計画していたこと。第二には、東北出身の参謀が狂信的な「勤皇屋」だったことだ。二作品の中で、司馬氏はこの二点を批判している。
次にこのエピソードの真偽だが、記述によれば、戦車連隊の将校会議でのこととある。したがって兵や下士官は「轢っ殺してゆけ」を聞いていないはずである。また司馬氏は第一連隊所属であり、疑問を投げかけた近藤新治氏は第二十八連隊である。
近藤氏の聞き取り調査の具体的内容が不明では、調査の信憑性にも疑問がある。まさに「言った、言わない」の水掛け論である。
「轢っ殺してゆけ」は作戦命令ではないから、書類に記録されているとも思えない。
したがって真偽を探るのならば、まずは本土決戦の作戦計画書を調査して、交通整理への配慮の有無を確認せねばならない。次に参謀将校の行動記録を調べ、司馬氏が記述した会議の有無を検証すべきだ。もちろん、近藤氏の出身地も調べ、東北との関連の有無も調べねばならない。
面倒なことでも、人物の歴史を検証するのならば、この程度の調査は必要だ。厳しい言い方になるが、人物を評するのならば、少なくとも自伝エッセーぐらいは熟読しておくものである。
杜撰な資料調べで、司馬氏を評している文筆家は、おおいに反省してもらいたい。

(太字は引用者=ぼく)
割とどうでもいいことですが、1964年生まれのジミー大西=大西秀明さんは、年齢から言うとこのテキストを書いた人ではありません。
とりあえずこのあと、「正論」2002年3月号の「NHKウオッチング」と、「昭和五十八年八月の中央公論社『増刊・歴史と人物』誌」を、どこかの図書館で探して読まなければいけないのですが、それはさておき。
ここで話に出てきた「石鳥居の垢」と「百年の単位」の当該部分を引用してみます。
引用元テキストは、以下の2つです。
『歴史の中の日本』(中公文庫・1976年発行・1994年改版・2004年12刷)
『歴史と視点』(新潮文庫・1980年発行・1991年改版・2006年55刷)
肝心の初出なんですが、「百年の単位」は、中公文庫の「初出一覧」によると「1964(昭和39)年2月号『中央公論』」と分かるのですが、「石鳥居の垢」は不明でした。「国立国会図書館」の蔵書検索(雑誌のほう)でも不明だったので、もう少し調べてみたいです。「notebook.html」というところでは「昭和47年6月」(1972年6月)となっていましたが、根拠は不明ですし、どの雑誌に掲載されたのかもわかりません。
まぁ、暫定的に「百年の単位」から先に引用します。『歴史の中の日本』p311-312、315

昭和二〇年の初夏、私は、満州から移駐してきて、関東平野を護るべく(?)栃木県佐野にいた。当時、数少ない戦車隊として、大本営が虎の子のように大事にしていた戦車第一連隊に所属していた。
ある日、大本営の少佐参謀がきた。おそらく常人として生れついているのであろうが、陸軍の正規将校なるがゆえに、二十世紀文明のなかで、異常人に属していた。
連隊のある将校が、このひとに質問した。
「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」
高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。
「轢き殺してゆく」
私は、その現場にいた。私も四輌の中戦車の長だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるをえない立場にあった。
(やめた)
と思った。そのときは故障さ、と決意し、故障した場所で敵と戦おうと思った。日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか。
私はこのとき、日本陸軍が誕生したとき、長州藩からうけついだ遺伝因子をおもわざるをえなかった。これはあとでのべる。
(中略)
大正、昭和に軍部の主導権をにぎったひとに、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から、多くの軍人が出ている。かれらは西国諸藩出身よりも、より以上に「勤皇屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」のうえに、狂信性を加えた。東条英機の祖父が南部藩士であり、旧会津藩士の家計からも多い。かれらは、「わが藩は、薩長よりもむしろ尊王の伝統が深かった」というさまざまの藩伝説を誇大に教えこまれて維新後育った家計の出身である。一種の史的コンプレックスからぬけるために、非常な精神家になる場合が多かった。
「轢き殺しても進め」
といったひとは、東北人であり、「天皇陛下のためだからやむをえない」とつけくわえた。

(太字は引用者=ぼく)
次に「石鳥居の垢」から。『歴史と視点』p89-90

敵が上陸してくる場合、北関東にいるわれわれは、それぞれ所定の道路をつかって南下する。その邀撃作戦などについて説明すべく、大本営から人がきたことがあった。そのため連隊の将校たちが集められた。
終って、質問になった。速成教育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。その道路が空っぽという前提で説明されているのだが、東京や横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸(あが)ってくれば当然その人たちが動く。物凄い人数が、大八車に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路を北上してくるにちがいなかった。当時は関東のほとんどの道路は舗装されておらず、路幅もせまく、はっと二車線程度という道筋がほとんどだった。戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているんだろうかということであった。
その人は相当な戦術家であったであろう。しかし日露戦争の終了とともに成立した官僚国家が、その後半世紀ちかく経ち、軍人官僚をもふくめて官僚秩序というものが硬化しきったころに太平洋戦争があり、この人はその官僚秩序のなかから出てきている。戦術もその官僚秩序のなかで考えている人であり、すくなくとも織田信長羽柴秀吉のような思考の柔軟さは環境としてもっていなかった。このため、この戦術という高級なものを離れた素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、
「轢っ殺してゆけ」
と、いった。
同じ国民をである。われわれの戦車はアメリカの戦車にとても勝てないが、おなじ日本人の大八車を相手になら勝つことができる。しかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである。私が、思想というものが、それがいかなる思想であってもこれに似たようなものだと思うようになったのはこのときからであり、ひるがえっていえば沖縄戦において県民が軍隊に虐殺されたというのも、よくいわれているようにあれが沖縄における特殊状況だったとどうにもおもえないのである。米軍が沖縄を選ばず、相模湾をえらんだとしてもおなじ状況がおこったにちがいなかった。ある状況下におけるファナティシズムというものはそういうものであり、それが去ってしまえば、去ったあとの感覚では常識で考えられないようなことがおこってしまっているのである。

(太字は引用者=ぼく)
「轢き殺してゆく」「轢き殺しても進め」「轢っ殺してゆけ」と、3種類のうち本当はどう言ったのか、はたいした違いではありませんが、「百年の単位」で質問するのは「連隊のある将校」、「石鳥居の垢」では、多分司馬遼太郎(「私を睨みすえていた」とあるテキストの解釈として、質問者でない人間を睨みすえる、という状況はうまく想像できません)、また、「大本営の少佐参謀」「東北人」という細かい説明は「百年の単位」には存在しますが、「石鳥居の垢」には欠けています。
まとめると、
1・司馬遼太郎氏の「ひき殺していけ」的記述は「百年の単位」(『歴史の中の日本』)と「石鳥居の垢」(『歴史と視点』)に載っているのが確認された。
2・誰が違う伝聞を言いはじめたかは不明だが、それを言ったのは司馬遼太郎氏によると「上司」「上官」ではなく大本営の少佐参謀」である(参謀も広義の「上司」かもしれないが)。
3・この「参謀の発言」が本当にあったか、は、複数証言や公式記録によって確認されているわけではない。誰がいつ、佐野市にある戦車隊に派遣されて行ったかは、当時の記録がもしあるのなら、それを見ると確認できるし、そこに行った人間が「いかにもそのようなことを言いそうな人間」である、という事実も確認できるかもしれない。また「複数証言」も出てくるかもしれないが、今のところそれらは未確認である(誰か暇な人は確認してみてください)。
4・ぼくの解釈としては司馬遼太郎は「軍隊という組織のダメ加減」ではなく、「実践を無視して、イデオロギー的に肥大している組織のダメ加減」を言いたかったという判断で、それは「参謀」という組織の人物(のダメ加減)を通して、である。
5・司馬遼太郎は「旧日本軍(皇軍)」批判ではなく、「思想(イデオロギー)」を「それがいかなる思想であっても」(←原文通り)論理的にわけが分からなくなる、という点において否定的である。「とにかく、思想より現実とか技術のほうが大事」と言っている、とぼくは判断しました。
ということで、「司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか」については、「1945年の初夏」に、「佐野市の戦車第一連隊」に派遣された「東北出身」の「陸軍参謀少佐」を、軍籍簿(って言うのかな)とか、「○月×日、△△少佐を佐野市へ派遣」とかいった軍の公式記録(あるのかな)とかを使って探せば、少なくとも「司馬遼太郎が言ったのを聞いたと言っているのは、どの少佐なのか」というのは分かりそうです。
ただし、その少佐が本当にそんなことを言ったか、までは分かりません。
ただし、司馬遼太郎がそう「証言」していることは事実で、作家としての責任を考えると、そんなにものすごく違ったことは言っていないだろう、というぼくの判断はあります。
「思想より現実とか技術のほうが大事」という考えは、「石鳥居の垢」の全文を読めば、その中には「(頭の中で)戦車は田んぼの中を通れないだろうと思う参謀連中」と「実際に戦車を通らせたら楽々通ってしまったという現実」に関するエピソードが、この「轢っ殺していけ」の前に語られているので、判断としては間違っていないと思います(「百年の単位」のほうでは、そのエピソードは「轢っ殺していけ」の後に語られ、ディティールは若干違います)。
また、司馬遼太郎さんの考えについては、このような解釈もあります。
有鄰 No.434 P4 「司馬史観と現代」

“技術史観”は、学徒出陣による戦車隊において過ごした2年間につちかわれた。学生あがりの下級士官であった司馬遼太郎は、戦車の修理ひとつさえできないため屈辱を感じた。この体験は技術というものが、精神を卑屈にすることを教えてくれた。
さらに、陸軍の上層部の連中が技術についての常識すらもたず、技術を無視、軽視し、兵隊たちを死に追いやったことを知って愕然とした。戦車隊で、ソ連戦車の威力に絶望的な思いを抱いていた司馬遼太郎は、日本国家の近代性というものを、“技術”の側から考えるようになった。

反戦」というある種の思想を、司馬遼太郎の「ひき殺していけ」発言を元に構成するのは、ぼく個人の意見としては、あまり賛成はできません。
司馬さんは「思想」については、「それがいかなる思想であっても」現実と乖離してしまう部分があるので否定的です。
また、別に「軍隊・国というもののある種すごさ・ダメさ」を語るには、司馬遼太郎が聞いたというだけの一参謀(それも下っぱのほうだと思います)の「ひき殺していけ」発言より、三者にも事実確認が可能な、もっといい資料が山ほどあるんじゃないかと思います。
要するに、ちょっとこの「ひき殺していけ」発言は、事実確認の不確かさと、情報流布の多さの間の落差が極めて大きい、というのがぼくの判断です。
特に「上司」「上官」が言った、と記述しているサイトは要注意なのです。
Kodakana のカミクズヒロイ

これは小説ではない。

確かにこれは「司馬遼太郎が「聞いた」と言っている」という「伝聞」なので、小説でも事実でもないですね。どうしよう。
駄文 - 実際には轢き殺された事態は(たぶん)発生していないのですが

 この話は聞いたことがあったのだけれども、司馬遼太郎がソースだったのかな。
 まぁ軍隊が国民を守らないのの典型例ですけど。
 国民を轢き殺しておいてまで守る国ってどんな国なんでしょうね。

そんな状況になったらもう、上の者が「負けた」って言えばいいと思うんですが、それは「国」の問題ではなく「軍隊という組織」の問題。松下とかトヨタみたいな大組織が崩壊するときには、「逃げる」か「組織保持のために死ぬまで戦う」か、という以外の選択肢はあまりなさそうです(まぁ、普通の企業なら「死ぬ」ということはないと思いますが、もののたとえとして)。
Fw:Seesaw Game 2nd - 国家と個人

太平洋戦争末期、戦車小隊の隊長であった作家の司馬遼太郎が、東京湾付近に上陸したアメリカ軍を迎え撃つために南下しているとき、北上してくる避難民とぶつかったらどうすればよいかと上官にたずねたら、「軍の作戦が先行する。国家のためである。ひき殺してゆけ」と言われたという。このとき司馬遼太郎は「国民をひき殺して守るべき国家とは何かと思った」と述懐している。国家と個人の関係というのは、いったいどういうものなのだろうか。

軍の作戦が先行する。国家のためである。」なんて言ってません(司馬遼太郎の伝聞情報でも)。このフレーズはいったいどこから取ってきたものなんでしょうか。司馬遼太郎さんは、「国民をひき殺して守るべき国家とは何かと思った」なんて述懐していません。司馬さんが思ったのは、「日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか」「思想というものが、それがいかなる思想であってもこれに似たようなものだ」ということです。「国家とは何か」じゃなくて「論理」「思想」に関する「何か」という疑問です。
司馬さんが沖縄戦の話を少ししていますが、一応それ関連で言及します。
ぼくが「沖縄戦」に関する記録や証言を見た限りでは、大丈夫です。
ひき殺して戦いになんか行きゃしません。
住民より先に「もっと戦えるところで戦う」という名目で、多分全体の9割ぐらいが逃げます。
ただしその、逃げる際に住民(一般市民)をひき殺すかも知れません。
だいたい制空権ないから、米軍の飛行機にやられて戦車本体はおしまいです。イラク戦争のときのイラク軍と同じですね。
最後ですが、まぁ司馬遼太郎のこの件に関する発言・記述は、異テキストがもっと存在するかもしれないので、その中に「国民をひき殺して守るべき国家とは何かと思った」その他のソースとなっているものがあるかもしれません。それが見つかった際には追記します。
 
これは以下の日記に続きます。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(1)