司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(1)

見出しは演出です。
これは以下の日記の続きです。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか
 
今日はものすごく面倒くさかったので、そのつもりで頑張って読む人も読んでみてください。
「(戦車で)ひき殺していけ」という記述であれこれ論争があったのは、以下の記述がどうもはじまりだったみたいです。今から4年近く昔ですか。
雑誌「正論」2002年3月号、「NHKウオッチング」(中村粲)(平一四・一・一七)より引用。p212-214

「人間講座」、実は反日講座
 
もう一つ、ここまで反日放送をするのかとわが目わが耳を疑つた教育番組がある。一月三日〈人間講座アンコール〉。半藤一利講師の「司馬さんと昭和史」(十一月十二日放送)だ。
この中で半藤氏は司馬遼太郎の次のやうな話を紹介する。「昭和二十年、栃木県佐野市で司馬さんが戦車小隊長として、東京湾から上陸する米軍を迎へ撃つため決戦にそなえてゐた夏のある日、生涯忘れることのできない出来事が起つた。大本営から本土決戦担当の某参謀が打合せに来た。その時司馬さんが、あるいは司馬さんではない方が聞いたのかもしれないが(極めて曖昧な表現だ----中村)、『我々戦車部隊が南下して行く時、東京方面から沢山の民衆が逃げて来るのにぶつかつた場合にはどうしたらいいのでせうか』すると参謀は一寸考へたやうにして「構はん。轢き殺して行け」と云つた。これは私も司馬さんから何度となくお聞きした。民衆を守るための軍隊が民衆を轢き殺して行けと云ふ。その中にはあどけない子供たちもゐる。若い司馬さんは思つたさうです。『一体、この国はどうなつたんだ』と。『轢き殺して行け、という言葉に象徴されるやうに昭和の日本の指導者や参謀は非人間的になりすぎてゐて、穏かで合理的な過去の日本人とは全く異質の人間達になつてゐる。これが昭和なんだ』と司馬さんは思つた。日本とはどういふ国なんだ、と司馬さんが尋ねる原点がここにあつたんです」
 
「轢き殺して行け」は本当なのか?
 
半藤氏の発言の問題点を整理して検討しよう。①大本営参謀の「轢き殺して行け」といふ発言を司馬は自分で聞いたのであらうか。傍点部分を読めば、司馬本人が聞いたのではなく又聞きのやうにも取れる。ところが〈人間講座〉のテキストを見ると半藤氏は「(この言葉は)司馬さんの質問に答えてなんですから、また聞きとか伝聞とかではないんです」とはつきり書いてゐるのだ(『NHK人間講座・半藤一利/清張さんと司馬さん』111頁)。「また聞きとか伝聞とかではない」のであれば、何故放送の時に「司馬さんではない方が聞いたのかも知れないが」等と、どちらとも取れる云ひ方をするのだらうか。半藤氏自身、この参謀の話が司馬の直接体験か又聞きなのかについて断言できないからだらう。そのやうに根拠の不確かな話をわざわざ材料にして教育テレビで歴史を講ずることに筆者は大きな疑念を覚えるのだ。
②参謀が「轢き殺して行け」と云つたのは確かな事実なのか。これに関しては平成十一年に評論家・草柳大蔵氏がかう書いてゐる。
「戦車は抵抗する敵勢力を銃弾によって制圧することはあるが、人間を轢き殺すことはないだろう。司馬遼太郎氏は戦車隊の見習士官であった頃、米軍が上陸した地点の住民が避難のために道を塞いだ場合、いかなる処置をとるのかと戦車隊長にお伺いを立てたところ『轢き殺して進め』といわれたと書いている。しばらくして同じ戦車群に配属されていた将校や下士官たちから『そんな言葉は一度も聞いたことがない』との反論が出て、私は何かの機会に司馬氏に尋ねてみたかったのだが、聞かずじまいに終ったのが残念でならない」
草柳氏も「轢き殺して行け」を信じてゐないのだ。同じ戦車部隊の将校、下士官が否定する位だから信用できないのも同然だ。半藤氏も昭和史研究家であるならば、司馬センセイの言葉だからと鵜呑みにせず、裏を取る努力をされるべきだらう。百歩譲つて左様な乱暴な発言があつたとしても、それは何かのはづみか勢ひで口が辷つて出た言葉と軽く聞き流すのが普通だ。命令でも何でもない。その些細な言葉を「昭和を考へる原点」になつた等と深刻ぶつて仰有るのは、やはり戦後思想による司馬・半藤両氏の後知恵としか思はれないのだが……。
③戦車と避難民がぶつかるといつた仮定も非常識な想像だ。広い関東平野、一列縦隊でやつて来る戦車を避難民が避けて通る道は幾らもある。必要あれば巡査、在郷軍人、警防団、青年団等が交通整理をするだらう。司馬思想の“原点”を生んだ状況設定にしてはお粗末過ぎないか。
④そもそも政治家や軍人の思はず洩らした片言隻句を以てその人間像を即断するのは戦史研究家にあり勝ちなことだが、それは悪しき意味での所謂「一斑を見て全豹を卜(ぼく)す」類であつて、見当外れの場合が少なくない。そのやうにして広く誤解されてきた人物としては、松岡洋右近衛文麿武藤章辻政信牟田口廉也、中島今朝吾等々枚挙に遑がない。小さな個々の事例で全体を臆断する位危険なことはない。まして「轢き殺して行け」といつた不用意な一言で「この国のかたち」等を誇大妄想されてはそれこそ「物云えば唇寒し」である。逆に、全体の中に個を置いて眺める、あるいは大きな状況の中で個々の発言の真意を判断することこそ、本当の意味での史眼であり、ヒストリカル・マインドであると云へよう。

半藤氏自身、この参謀の話が司馬の直接体験か又聞きなのかについて断言できないからだらう。」というのは、中村さんの大胆すぎる推測ですが、ぼくにもなぜ半藤さんがTVでは「あるいは司馬さんではない方が聞いたのかもしれないが」と言ったのかは不明です(事実そのように言ったのかの確認は、現在ではとても困難なので、「半藤さんがTVでそのように言った」というのも今のところ中村粲さんによる伝聞情報しか確認していません)。
それは何かのはづみか勢ひで口が辷つて出た言葉と軽く聞き流すのが普通だ。」というのは、ちょっと保守的思想の持ち主の頭のレベルが疑われるような記述で、雑誌「正論」の読者と、中村粲さんの記述の両方を甘く見ているような印象をぼくは受けました。だいたい、鵜呑みにしないのなら、検証責任(「裏を取る」という、事実の確認)は、それを否定する側に(側にも)あるのでは。ぼくの考えは、前の記述を繰り返しますが、
1・司馬遼太郎さんがそのように言ったり書いたりしているのは本当
2・ただし、実際にそのようなことを「大本営の参謀少佐」が言ったかどうかはわからない(事実確認を取る方法がいくつか考えられなくはないが、とても大変)
3・「ひき殺していけ」と言ったという、「大本営の参謀少佐」の発言を、ほとんどの人間が「上官」「上司」が言った、と勘違いしている(大本営の人間を「階級が上」という理由で「上官」と呼ぶかどうかは不明)
4・司馬遼太郎さんが否定していたのは「思想・主義」という観念的なもの全般で、軍国主義だけを特別に、イデオロギー的に否定していたわけではない
とくに「3」「4」が重要なのです。
なお、「平成十一年に評論家・草柳大蔵氏がかう書いてゐる。」というテキストは、大宅文庫国会図書館で記事検索してみましたが、うまく見つかりませんでした。どなたか平成十一年の、何という著作(雑誌の場合は雑誌名その他)で、草柳さんはここで引用されたようなことを書いていたのか、ご存じのかたがおりましたらコメント欄ででも教えてください。なお、やはり草柳さんも「轢き殺して」発言を「大本営から来た参謀少佐(これが正解)」と「戦車隊長(これは間違い)」を勘違いして記憶しているようです。
③については、ぼくは中村さんは想像力が、軍隊や戦争について甘い方向で働く人なんだなぁ、という感想しか持ちえませんでした。「道が幾らでもある」ということなら、「たとえば東京の神田から佐野市へ行く道は、国道○○線だけではなくこういう道もある」とか、「○○するだらう」ではなく、「法規としてこういうことが明文化してある」と具体例を示さないと、何も言っていないのと同じです。
④なんですが、「政治家や軍人の思はず洩らした片言隻句を以てその人間像を即断する」のは「戦史研究家」ではなく「小説家(人間心理の研究に近いことをしている人)」のすることで、まれにそういった「思はず洩らした片言隻句」について戦史研究家が言及する場合があるとしても、それは「研究」のテキストではなく『NHK人間講座』のような、「研究周辺」に関するテキストです。半藤さんが「大本営参謀の出てくる戦史研究」を「研究テキスト」として発表するなら、この「轢き殺して行け」発言については多分もっと徹底的に調べて、その事実があったかなかったかを語ることでしょう*1
あと、非常に重要なことなんですが、この参謀将校の発言は、「日本とはどういふ国なんだ、と司馬さんが尋ねる原点がここにあつたんです」と半藤さんは書き、それをさらに中村さんは歪曲パラフレーズして「「昭和を考へる原点」になつた」と書いていますが、司馬遼太郎さん自身はそのように書いていません。それは半藤一利さんの思い込みと、中村さんの勘違いによる誤読なんじゃないでしょうか。
以下、『歴史と視点』(新潮文庫・1980年発行・1991年改版・2006年55刷)掲載の「石鳥居の垢」の最後の一節を引用してみます。p91

九月になって故郷の町に帰ってみると、家も町も空襲で灰になっており、かろうじて町内の氏神の石鳥居だけ残っていた。石鳥居は御影石でつくられていたが、焼け焦げたためか、ひっ掻くとボロボロと垢のように、石の皮のような物質が落ちた。そのことから、いま過ぎたばかりの昭和前期の日本というのはあれは本当の日本だったのかどうかということが変に気になってきて、その気になり方が、日本人の経た長い時間に多少の関心を持つ契機になったような気もする。もっともそれは思い入れで、そういうものでもないかもしれない

まぁ、しいて言うなら「日本人の経た長い時間に多少の関心を持つ契機になったような、ならないような」ぐらいなことを考えるための一エピソードとして、参謀少佐の言葉が入っている、ぐらいの感じでしょうか。
それから、「物云えば唇寒し」という俳句の一節は、単に「寒い季節になったな」という意味だけ芭蕉の俳句の一節です。ぼくの日記の以下のところ参照→もの言えば…。「言論の自由」その他の警句的な意味はありま温泉。
しかしなんか、読み返すと中村粲さんの司馬・半藤批判テキストは、思想的にダメな方向すぎる(観念的すぎる)という意味で、あまりちゃんとした批判になっていないように、ぼくには思えましたが、皆さんはいかがでしょうか。
ということで、『NHK人間講座・半藤一利/清張さんと司馬さん』も探して来ました
なんか、ものすごく量が多くなったので、続きはまた明日なのです。
正確には、「見出しは演出」じゃなくて「見出しは予告」みたいになってしまいましたが、そういうことで。
 
これは以下の日記に続きます。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(2)
 

*1:これはぼく自身が「戦史研究家」について甘い方向で想像力を働かせているだけ、かもしれませんが。