沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2)

これは以下の日記の続きです。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(1)

 
これは、『裁かれた沖縄戦』に掲載されている、1988年2月10日の「沖縄出張裁判」における安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化してみたものです。
元テキストは、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)p23-124です。
原文の「注(頭中)」も、注釈として掲載します。
ただ引用しているだけではナニなので、ときどきぼく自身の意見や疑問点なども書くことにします。
安仁屋政昭証言テキスト・2

25・ところで、先ほど沖縄戦の特徴の一つとして、たくさんの住民が亡くなったということを述べられましたが、これは先ほど言われた捨て石作戦と係わりがありますか。
 もちろん、ございます。
26・日本軍----沖縄守備第三二軍ですね----は、沖縄の住民をどのように位置付けておったんでしょうか。
 一つは、「一木一草に至るまで戦力化する」*1という言葉がございますが、この言葉に象徴されるように、根こそぎ動員、軍人と民間人との区別なしに戦場動員をする、というところにあったと思います。
後に提出する甲第二九六証を合わせ示す
27・これは、昭和一九年一一月一八日付、球第一六一六部隊がお作りになった極秘文書のコピーですね。
 はい、そうです。
28・その文書で、今沖縄戦において日本軍が住民をどう位置付けておったかということについての記載がありますか。
 あります。
29・ちょっと指摘してください。
 それは、「第一 方針」というところにかいつまんで書いてありますが、「皇国ノ使命及ビ大東亜戦争ノ目的」というようなことをキチッと認識しろということと同時に、一番ピシッと言っているところは「軍官民」----軍も役人も県民も、という意味ですね----「軍官民共生共死ノ一体化」----共に生き共に死ぬ----そのことを強く言っております。
後に提出する甲第二九七証を合わせ示す
30・これは昭和二〇年一月二七日付の新聞*2ですが、これはどういう新聞ですか。
 これは沖縄で----一県一紙と言って、新聞は一紙に限定されている時代ですね。新聞は当然軍と一体となって、軍の方針を沖縄県民に伝えるという役割を担わされていたものであります。
31・その沖縄県民の位置付けとの関係で、さわりの部分を指摘していただきたいと思います。
 参謀長の談話というのを発表しております。長勇参謀長*3のことですね。この中で「一人十殺」ということを言っております。「一人十殺の闘魂」ということを強調しておりますけれども、戦場に不要の人間がいてはいかん、と。これは住民を邪魔者扱いにする一つの発想である、と思います。その一方において、「俺も誠の戦兵」だ、と。おれはほんまの兵隊なんだと、六〇万県民そう思って自主的に国民義勇軍*4などを組織して軍と行動を共にしろ、ということを強調しております。なお、ついでに言いますと、この二〇年一月二七日付の新聞だけでなくて、連日同趣旨のことは新聞に報道されています。
32・守備軍の八原博道参謀*5のことは、ご存知ですね。
 はい。
33・この方が、「沖縄決戦」という本をお書きになっておるんですが、その中で、一九四五年五月下旬、第三二軍が首里の司令部を放棄して摩文仁に撤退したときに、牛島司令官*6が八原博通参謀に語ったということが記載されておりますが、証人は御記憶にございますか。
 はい、ございます。
34・ちょっと指摘してください。
 これは、その時点で沖縄守備軍はほぼ三分の二の兵力を失っていたと軍事記録にありますけれども、牛島司令官はこのように語っているんですね----「軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の南の涯、尺寸の土地の存する限り戦い続ける覚悟である。」というようなことを、八原博道大佐に語ったと言われております。
35・私の理解では、一般住民はむしろ軍によって守られるべきものだと思いますし、沖縄県民もそう信じていたと思いますが、沖縄戦では一般住民も軍とともに玉砕をするということが、むしろ軍の方針としてあったと考えてよろしいわけですか。
 そのように考えるしかないわけです。
36・証人が意見書で「根こそぎ戦場動員」という表題で書いておられる九ページ以下のことについて伺いますが、意見書でかなり詳しいので、この辺はかいつまんで質問だけ致しますが。
後に提出する甲第二九八号証を合わせ示す
この文書は、どうい文書ですか。
 これは防衛庁防衛研修所の戦史部の編纂した「沖縄方面陸軍作戦」*7というものです。
37・甲号証としては、その抜粋をお出しになっているわけですね。
 はい。
38・八四ページ----この中に、いわゆる県民の根こそぎ動員を軍がどういうふうに考えておったかという、その基本的な牛島司令官の訓示が出ておりますが、さわりの部分だけで結構ですが、指摘してください。
 七項目ございますが、主な点を申しますと「一木一草ト雖モ之ヲ戦力化」するという方針が述べられている、ということです。それから、沖縄県民に対しては、軍の作戦の邪魔をするな、させるな。と同時に、郷土防衛という精神で積極的に軍に協力をする、しろ、せよ、と言う。もう一つ、大変重要なことですが、これは沖縄戦のその後の問題に係わってきますけれども、「防諜ニ厳ニ注意スベシ」----スパイに気を付けろ、ということですね。そのことを厳しく言っております。
39・県民をそのような方針に基づいて根こそぎ動員をして行ったという、その具体的な方法と言いますか、簡単に述べてください。
 「根こそぎ動員」とよく言われておりますけれども、これは戦場になる前から、飛行場建設、陣地構築、砲弾運びなどをやらせているということと、戦場になった段階で正規の戦闘員が不足しておりますので、それを補うという意味で、本来ならば戦場に動員できるような対象ではない人々を戦場動員しているということ。その典型が、防衛隊*8であり、学徒隊*9である----そいういうふうに思います。
40・法令上の根拠のないのに動員をされて行った人たちもいるわけですね。
 そのとおりです。
41・年齢的に言うと、どういう層の人たちが動員されて行ったんですか。
 法令的なことから申しますと、兵役法による召集については申しあげるまでもないと思います。そのほかに、陸軍防衛召集規則というのがございますが、これは昭和一九年一〇月に改正されて、年齢は一七歳から四五歳までの男子となっております。これは普通の兵役法で言いますと、戦場動員できるものじゃないですね。第二国民兵などと言われる者を、全部動員している。ところが、実際には、この動員の形態は一〇・一〇空襲*10で沖縄連隊司令部も書類など焼いてしまっておりますから、市町村に防衛召集の事務を委任されておりまして、現地部隊が勝手に何名寄越せという形で防衛召集やるわけです。そのときには、その員数をそろえるには一七歳から四五歳までの者では到底間に合わないわけです。ですから、それ以下の子どもたちや、場合によっては六〇歳になるようなお年寄りまで、戦場動員をしている。更に、いわゆる戦場になった段階では、女性も動員する。戦場に動員しているわけです。
 
(補注)
八原博通参謀の名は「博通」が正しいようだが、元テキストが「博道」と混在しているため、そのまま記述し、補注でコメントしておきます。

(感想その2)
琉球新報、すごすぎです。
安仁屋さんに限らず、沖縄の人が沖縄戦を語る場合は、「今の自分が○○なのは、旧日本軍のせいだ」という、ええと、精神医学用語では何というのかな、そういうケースが多いように見えるのが気になります。
「戦場に不要の人間がいてはいかん」というと、住民を邪魔者扱いするのか、と怒り、そうでないと「無理矢理日本軍と一緒に戦わせた」と言いそうな人たちについては、何と言えばいいんでしょうか。
女性を動員した例は、ちょっと知らないので、どのように記録に残っているか見てみたいと思います(記録があったらば、ですが)。
タイプミスと思われるものがありましたら、コメント欄でご指摘ください。
 
これは以下の日記に続きます。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(3)
 

*1:一九四四年八月三一日、第三二軍兵団長会同において、牛島軍司令官は七項目の訓示をしている。(防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄方面陸軍作戦』)。そのなかで、「極力資材ノ節用増産貯蓄ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化スヘシ」と述べている。

*2:琉球新報』のこと。同紙は一九四〇年、『琉球新報』『沖縄朝日新聞』『沖縄日報』の三紙を統合してできた日刊紙。国の新聞統制によって一県一紙となったものである。戦時下の沖縄の状況を知る貴重な資料である。沖縄戦のはじまった一九四五年三月には、首里の壕内に移りタブロイド判の陣中新聞を出したが、五月二五日、戦火の中で解散した。

*3:長勇(ちょう・いさみ)一八九五年〜一九四五年。第三二軍参謀長。陸軍士官学校陸軍大学校卒業。第一六師団参謀、陸大教官、第二六師団参謀、第二五軍参謀副長、第一〇歩兵団長などを歴任。この間、一九三〇年に桜会に加盟、クーデターによる国家改造を目指す陸軍将校グループの主要メンバーとして活動した(一九三一年十月事件)。日中全面戦争のはじまった一九三七年には中佐で、中支那方面軍参謀と上海派遣軍参謀を兼ね、南京大虐殺を指揮したひとりである(徳川義親『最後の殿様』)。一九三八年には連隊長として「張鼓峰事件」(東部満ソ国境における日ソ両軍の衝突)の当事者となった。沖縄戦では中将で第三二軍の参謀長となり、積極攻撃論の立場から八原博道高級参謀と対立した。一九四五年六月二二日、牛島司令官とともに自決した。(補注:人名の読みとしては「ちょう・いさむ」以外の読みは、このテキスト以外に確認できなかった)

*4:国民義勇軍とは、国家の共生によらないで住民が自主的に編成した戦闘部隊のことであるが、沖縄戦では、正規兵の兵力不足を補うために、軍の強制によって住民が根こそぎ戦場動員された

*5:八原博道(やはら・ひろみち)一九〇二年〜一九八一年。沖縄守備軍第三二軍高級参謀。陸軍大佐。陸軍士官学校陸軍大学校卒業。陸軍省人事局勤務ののちアメリカ留学、陸大教官、第二・第五軍参謀、大本営作戦参謀、ビルマ方面軍参謀を歴任。一九四四年、沖縄守備軍第三二軍高級参謀となり、持久戦論の立場から攻撃論を主張する長勇参謀長と対立した。作戦参謀の立場から、戦後に『沖縄決戦』を著し(一九七二年)、沖縄戦の作戦指導の内実を明らかにした

*6:牛島満(うしじま・みつる)一八八七年〜一九四五年。沖縄守備軍第三二軍司令官。陸軍大将。陸軍士官学校陸軍大学校卒業。歩兵第三六旅団長、第一一旅団長、陸軍士官学校長などを歴任。一九四四年八月、第三二軍司令官となり、一九四五年六月二二日、摩文仁の洞窟で自決した。

*7:防衛庁防衛研修所戦史部の編集した沖縄戦関係の記録は、『沖縄方面陸軍作戦』『沖縄方面海軍作戦』『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』の三点が主要なものである。そのうち地上戦の全容を日本軍の側から考察したのが『沖縄方面陸軍作戦』である。

*8:防衛隊は、陸軍防衛召集規則にもとづいて現地徴集された部隊である。年齢は一七歳から四五歳までの男子であった。沖縄連隊区司令部では、一九四四年の夏、県下の市町村の兵事主任を集めて、本来、兵籍にない国民兵を兵籍に編入して名簿を調整、「特命令状」を交布した。いつでも戦場動員できる態勢をととのえたのである。この年の一〇月一〇日に南西諸島全域の大空襲があり、連隊区司令部の兵籍簿も消失した。現地部隊は、それぞれの地域で市町村役場に防衛召集を命令した。現地駐屯部隊の要求に応じて防衛召集の事務を担当したのが兵事主任である。防衛召集は一九四四年の年末と一九四五年の三月に大々的に実施された。防衛隊の動員数は二万数千人に達した。現地軍は沖縄が戦場になってからも、避難壕から一七歳未満の少年や六〇歳以上の老人まで根こそぎ戦場へ引っ張り出した。これも、防衛隊と言った。一九四五年六月二二日に交布された「国民義勇兵法」によると、十五歳から六〇歳までの男子、一七歳から四〇歳までの女子は、すべて国民義勇戦闘隊に編入されることになっていた。本土決戦にあたっては、産業報国会なども編成がえをして、二八〇〇万人の義勇戦闘隊が戦場動員される予定であった。戦時立法は、ついに女性に兵役義務を負わせるところまで行きついたのである。

*9:学徒隊とは、中等学校・女学校・青年学校の生徒を戦場動員した部隊である。男子は鉄血勤皇隊(たとえば、県立一中鉄血勤皇隊)、女子は看護隊(たとえば、県立二高女看護隊)といった。「ひめゆり隊」「しらうめ隊」などというのは、戦後になって、学園の同窓会の名前で呼ぶようになったものである。学徒隊は二三〇〇人余の生徒を動員し、一二〇〇人以上の死者を出している。学徒隊は、臨戦下の勤労動員とは異なる法的根拠のない義勇隊であり、第三二軍の要請によって学校側が生徒に戦場動員を強いたものである。沖縄戦の学徒隊を先例として一九四五年五月二二日に交布された「戦時教育令」では、本土決戦にそなえて国民学校(小学校)や盲聾唖学校にまで学徒隊を編成することになっていた。

*10:一〇・一〇空襲は、一九四四年一〇月一〇日、米第五八機動部隊が南西諸島に加えた最初の空襲である。六時四〇分から一六時過ぎまで、奄美大島・徳之島・沖縄諸島宮古島石垣島・大東島などに、のべ九〇〇機の艦載機が来襲し無差別攻撃を加えた。死傷者は軍民あわせて一五〇〇人以上にのぼり、港湾施設と飛行場は徹底的に破壊された。