水俣病を語る人があまり語ることのない「第三水俣病」について

水俣病については、「ニセ患者」についても語らないといけないんですが、まぁとりあえずこんなのとか。
こんな言葉が投げつけられた

水俣病が発見された頃、患者は「奇病」「伝染病」とののしられ、兄弟や親類さえ家に寄りつかないという目にあった。
長い闘いの末に、水俣病患者はチッソから補償金を勝ち取ってきたが補償金は一方で、悪質な中傷やねたみを招き新たな苦痛の一因となった。
認定申請が相次ぐ頃になると「ニセ患者」などと非難を浴びせられるようになった。
手足の変形や寝たきり状態だけを水俣病ととらえる「無知」や、補償金ほしさに患者はウソをつくという「偏見」が、残酷な視線を生み出す。
不知火海の魚を食べた人々がすべて汚染されている。−−これが現実であり、水俣病チッソが作り出した「犯罪」であるという事実を知らせることからしか、このような患者への暴言は消えない。

不知火海の魚を食べた人々がすべて汚染されている。」というのは、「イラクは全土が劣化ウランで汚染されている」みたいな、ちょっとアレなセンスを感じてしまうんですが、まぁいろいろあったようです。
「ニセ患者」で検索すると、こんなのがありました。
インターネット時代の「ニセ患者」

ケイシー・ニコールさんはカンザス州に住む19歳の女性で、白血病との壮絶な闘いをウェブに書き綴っていた。これを読んだ多くの人が同情して回復を祈り、5月15日にケイシーさんが亡くなったときにはその死を悼んだ。
だが、『ニューヨークタイムズ』紙はこれを、ウェブを使った手の込んだいたずらだと報じた。「ケイシーさん」が実は、デビー・スウェンソンさんという、カンザス州ピーボディーに住む40歳の主婦で、亡くなるどころかぴんぴんしていることが判明したのだ。

アクセス稼ぎにこの手があったか」とか、「次のエイプリルフールには」とか思ってはいけません。
水俣病の話に戻します。
[■水俣病と報道<5>ニセ患者 中傷を解消しきれず―連載] / シリーズ「水俣病50年」 / 西日本新聞

この問題が最も燃え盛ったのは、75年8月。環境庁(当時)への陳情時、熊本県議が「(認定)申請者の中には、補償金目当てのニセ患者が多い」と発言した。当時の本紙には「『患者軽視の発言許せぬ』」「きょう真相糾明集会」などの見出しが並ぶ。

この熊本県議の名前と、発言の前後はまたあとで調べることにして。
[■航跡 ある家族史<11> 放置 大量棄却、冬の時代] / シリーズ「水俣病50年」 / 西日本新聞

「ニセの患者が補償金目当てに、次々に申請している」。75年、熊本県議の「ニセ患者発言」は、申請患者への偏見をさらに強めた。
環境庁(当時)は77年、認定基準を厳格化。以後、患者認定の門戸は狭められ、大量の未認定患者が長年放置される。

ちょっと文脈的には、「認定基準を厳格化」と「ニセ患者(そのようなものが本当にいたのかどうかは不明です)」が関係あるのかな、と思ったりするんですが、実はこれらの前、1973年の春〜秋にかけて、「第三水俣病」事件というのがあったわけです。
水俣病40年目の政治決着

しかし、1973年の第三水俣病事件による水銀パニックチッソの経営悪化などの社会的要因によって認定基準は再び厳しくなっていきました。

(太字は引用者=ぼく)
「ニセ患者」に関しては、こんなテキストもあるわけで、
週刊新潮編集部 御中:申 入 書

そのような中で、貴誌11月16日号において「特集『ニセ』水俣病患者 260万円賠償までの40年」と題する記事が掲載されたのです。
私たち被害者のみならず、特定の医療機関を名指しで中傷するなど、その内容は悪意に満ちたものであり、事実をねじ曲げた部分も多々見られます。私たちは満腔の怒りを感じつつも、あえて個別の内容に反論することはしません。なぜならばこのような記事で事実を曲げることはできないであろうし、歴史がこの記事の誤りを証明することを確信しているからです。私たちはこのような誹謗中傷を過去にも受け、今も受けています。私たちは市民の方々や地元行政と協力して、このような壁を越えていくつもりです。

「貴誌11月16日号」というのは、週刊新潮の1995年11月16日号ですか。なかなか長く尾を引いた話題のようです。
「特集『ニセ』水俣病患者 260万円賠償までの40年」は読んでみたくなりました。
こんなのもあります。
水俣病歴史考証館(2)

熊本日日新聞の83年のアンケートによると、
 ☆患者をどう思うか
  同情する等肯定的意見44%、騒ぎすぎる、保証金目当てだろうという否定的意見45%
 ☆疑問な人(ニセ患者)がいると思うか
  かなり、あるいは少しはそんな人がいると思う69%

(太字は引用者=ぼく)
フェミニズム用語で言うところの「バックラッシュ」でしょうか。
今はどうなんだろうな。
水俣病裁判は複数あるので、以下のところを参考に。
水俣病事件主な争訟
この中の「第一次訴訟(民事) 69.6.14 」の判決が、「73.3.20・一審判決・患者勝訴・賠償金1600〜1800万(確定)」で出まして、これが最初の訴訟〜判決だったようです。
あれこれ興味深いので延々と見てまして、その中にこのようなものが。
水俣病歴史考証館(2)

第二水俣病阿賀野川)は認定されたが、第三水俣病有明湾)、第四水俣病(徳山湾)は認定されなかった。1973年、有明湾では魚が売れずパニック発生。

(太字は引用者=ぼく)
第三水俣病の話になります。
水俣病の「73.3.20・一審判決」から2か月経ったころ、こんなことがありました。
■水俣病と報道<4>過熱 使命感だけだったか―連載

有明海に『第三水俣病』」−。1973年5月22日、全国紙の一面に衝撃的な見出しが躍った。
熊本大第2次水俣病研究班が、有明海南部の町で水俣病と似た症状の患者を発見。汚染源はチッソとは別の疑いがある、と報じたのだ。水俣、新潟に続く「第三水俣病」の発生なのか。その日の夕刊から報道合戦となった。
「完全にノーマークだった。先輩からえらい怒鳴られてね」。当時入社4年目、西日本新聞熊本総局で水俣病担当だった渋田民夫記者(59)=現・論説委員長=は赤茶けたスクラップ記事に記憶を重ねた。
「公害」が全国で社会問題化していた時代。新たな被害出現の記事は即、大きな扱いになった。記者たちの「患者探し」は熱を帯びる。視野狭窄(きょうさく)を測ろうと、住民の目に指を当てる「にわか医師」のような記者もいたという。
渋田記者は今、「喉(のど)に棘(とげ)が刺さったような思いだ」と明かした。それは、特ダネを抜かれたからではなかった。
 
   ■   ■
 
「本当はもう1年じっくりやるつもりだったんだが…」。研究班のメンバーだった熊本学園大の原田正純教授(72)は、書かれた側の思いを吐露する。「水俣病の疑いは十分だった。でもまだ裏付けが弱かった。新聞に派手にやられて『第三水俣病』という言葉が独り歩きしてしまった
騒ぎが大きくなりすぎて、その後の研究は環境庁(当時)に実権を握られてしまう。「後の追跡調査が一切できなかった。住民の検診も自由にできなくなった」。検診が記事になると魚が売れなくなり、皆が迷惑する。そんな理由で、原田教授らを拒む者もいた。
それでも報道は過熱した。「福岡・大牟田でも類似患者」「徳山湾“第四水俣病”の不安」…。魚価暴落を含む「水銀パニック」が広がった。
第一報から2カ月後の8月4日。逆の特ダネが本紙朝刊一面に出た。「有明海の患者2人は水俣病ではなかった」−。研究班と対立する熊大教授の診断結果を、渋田記者がスクープしたものだ。「第三」に否定的な側からの情報提供だった。
「出すかどうか一週間悩んだ。広く患者を救済するという流れを、覆すことになると思ったから」。その懸念を「第三水俣病の不安は消えぬ。実態調査の継続を」と解説記事にして添えた。だが、強い見出しはそんな訴えを軽々と吹き飛ばした。
 
   ■   ■
 
環境庁は翌年6月、「有明海沿岸に第三水俣病の患者はいない」と最終判断を下した。
原田教授ら研究班は騒動の張本人と目され、その後の研究から締め出される。研究班長は、熊本県水俣病認定審査会会長の座を追われた。
「あの騒動は何だったのか」。渋田記者は時折考える。社会に警鐘を鳴らす使命感−。だがそれ以上に当時の記者たちを包んでいたのは「書けるものはどんどん書けという異様な興奮状態だった」という。「抜かれ記事は否定するか、新しいネタで抜き返す。結局、私の記事は火消しを望む側に書かされたわけだ」
「研究者と報道。両者に罪がある」。原田教授は、マスコミだけに責任を負わせる言い方はしなかった。しかし次の言葉は、ストレートな批判以上に突き刺さった。
「気の毒だったのは患者さん。肩身の狭い思いをさせ、振り回した。そして、本当にいたはずの被害者を闇に葬ることになってしまった」
 
=2006/10/15付 西日本新聞朝刊=
 
2006年10月18日22時44分

(太字は引用者=ぼく)
なかなか面白いテキスト(記事)だったので、つい全文引用してみましたが、「1973年5月22日、全国紙の一面に衝撃的な見出し」ということで、「ああ、その全国紙って多分アレかな」と思った人も多いと思います。
東ソー株式会社
第2節 今後の問題点(pdf)

昭和48年3月,数年にわたって争われた水俣病裁判が,患者側の全面勝訴に終り,有機水銀汚染に対する関心が全国的に高まった。これに呼応するかのように,48 年5 月下旬,「有明海に第三水俣病が発生している」と大きく報道され,その原因を水銀による魚貝類の汚染としたため,漁民が有明海の水銀使用工場に,補償と操業停止を求めて押しかけるという騒ぎとなった。この問題を重視した通産省は,全国の水銀使用工場における使用状況を実地調査することとし,6 月初旬,まず徳山地区の当社と徳山曹達㈱の二社に,立入り調査を行った。ところが,すでに「徳山湾周辺に水俣病類似患者発見」という報道がされていたため,調査
現場へ大勢の報道関係者が押しかけた。その上,操業開始以来の消耗水銀量がそのまま徳山湾への排出量であり,徳山湾が甚だしく汚染されているかのように報道したため,漁民が両社の工場へ操業中止と補償を求めて集団交渉を持つという大騒動になった。この騒ぎは全国の水銀使用工場周辺に波及し,魚貝類の売上が激減し,価格も暴落してゆき,全国的な「魚パニック」の状態となった。
全国に広がった漁民デモやマスコミによる企業攻撃の影響は大きく,国会でも問題となった。この事態を重くみた政府は,48 年6 月三木環境庁長官を議長とする「第1 回水銀等汚染対策推進会議」を開催し,次のような方針を決定した。
① 水銀法の隔膜法への転換は,昭和50年9月を目途として極力進める。
② 水銀法工場のクローズド化は,昭和49年9月末までに完了すること。
こうして,産構審からの答申が出てから僅か4 ヵ月しか経過していない

(太字は引用者=ぼく)
1973年というと「(第一次)オイルショック」「トイレットペーパーパニック」が歴史として残っているんですが、「魚パニック」がその前にあったとは知りませんでした。
熊本学園大学「水俣学」レポ・第6回= 熊本日日新聞・高峰 武さんが講義 = 恐ろしい“あの時は仕方なかった”という言葉 地元ジャーナリストとして反省に立って熱弁振るう

判決は地殻変動を起こしたといっていいほど大きな影響を与えた。
その中で起きたのが第三水俣病問題だ。1973年3月に第一次訴訟の判決があり、5月に熊大の研究班が、有明町水俣病によく似た人たちがいるという報告書を出した。全国が水銀パニックになった。実際、全国に水銀を排出する工場がベースにあった。そして、マスコミの特ダネ競争に火がついた。患者を探して回った。先輩たちもにわか医者になって探していた。
漁貝類に含まれる水銀がどれくらいだと安全なのかということで、国は水銀の暫定規制値を作る。ずるいのは暫定としながら、これが今日も続いていることだ。類似患者に対して現時点では白、といつまでも放置している。
第三水俣病をどう総括するかは非常にむずかしい。医学のあり方がよかったのかどうか、第三水俣病に絶えうるような研究の中身なのか、否定するだけの根拠があるのか。これ以降という事はないかもしれないが、患者と対立、患者から否定されていくという存在に熊大はなっていく。そして水俣病の研究をする事が非常に息苦しくなっていく。みんながしなくなる。負の循環に陥っていくきっかけになった気がする。しかし、成果として患者がいないと言われた御所の浦で患者を発掘する。昭和35年水俣病の発生は終ったのを実証的に否定するなど大きな成果を上げている。
一番問われたのはマスコミだと思う。患者探し自体は悪いことではないと思う。しかし、どれだけ患者をフォローしたかだ。特ダネ競争はあるべきだと思う。真実を追求したいという欲求は大事だと思う。その思いが、ロッキード事件鈴木宗男などの真実が明るみになったと思う。それと同時に、粘り強くその問題の本質は何かを検証することがなければならない。

(太字は引用者=ぼく)
まぁ、マスコミの人なのできびしい反省をしているわけですが。
お待たせしました。
水俣病問題−保存版−(pdf)

十年後の水俣病の実態、現状を明らかにしようとして発足した熊大二次研究班は、1971年8月21 日から、御所浦島水俣市の住民の一斉検診を行った。そして、対照として天草郡有明町の住民に同じ方法による住民検診が行われた。同じスタッフで、同じ方法と基準でピックアップしたところ、対照地区であったはずの有明地区において、10人(1.1
%)が水俣病およびその疑いありとなった。
研究会内部の報告会では、有明の汚染は過去のもので緊急性は低いと考えられることから、公表はせず慎重に継続調査をすすめる方針とされた。しかし、1973年5月22日、『朝日新聞』が一面トップで「有明海に第三水俣病」「天草・有明町で八人の患者」などと派手にスクープしたため、全国に水銀パニックが拡がった。熊本県の魚介類は関西で一時取引き停止をくい、魚価は下がり、売れなくなった。
環境庁は、カセイソーダ工場の水銀電解法の廃止、全国の九汚染水域の緊急な調査実施を決定した。厚生省は同時に、「食べ方の心得」を発表した。さらに、汚染のすすんでいる魚貝類について、具体的な食卓指導に乗り出した。「有明ものは大好物。」と知事が語ったとか、三木武夫長官も水俣の湯の児で魚をぱくつくポーズで写真をとったり、いろいろ笑えぬ悲喜劇があった。
第三水俣病事件の最大のマイナスは、その後の研究、調査を一切不可能にしてしまったことである。有明町の第三水俣病問題にしても、その後の追跡調査、宇土市の汚染源といわれた日本合成化学に近い漁村の住民の臨床疫学調査など、一切出来なくなった。あとの調査はすべて行政側ににぎられてしまった。第三水俣病さわぎをおこした張本人である私たちは、研究からしめ出されてしまった。
水俣病の原因究明以来一三年、新潟水俣病発生以来八年もたっていた。行政がその間に、きちんとした水銀に対する対策、総点検を行っておれば、マスコミの取り上げ方がどうであれ、このようなパニックはおこらなかったであろう。

1971 年、行政不服審査請求で川本らが逆転認定を得たのをきっかけに、疫学条件を重視して救済の主旨を明らかにした「46 年事務次官通知」が出され、その後認定患者数は増加した。
しかし、高度経済成長の陰りとチッソの経営破綻、第三水俣病の抹殺をきっかけに、1977年、症状の組み合わせを重視して認定に絞りをかける判断基準が作られた。そして第2次研究班のメンバーを審査会から締め出し、ずさんな「集中検診」が行われた。これ以降認定者は激減し棄却者が増加したのである。

(太字は引用者=ぼく)
というわけで、「また朝日か(朝日だったのか)」なのでした。
しかしこの「第三水俣病」騒動は、日本全国の朝日新聞その他の新聞読者・マスコミの受け手をパニックに陥れ、「患者の中にはひょっとしたらニセ患者がいるのかも」という誤解を広め、大学の研究者の慎重な研究を阻害し、国会では与野党ともに余計な時間を費やし、と、いったい誰が得をしたのか、皆目不明な騒動だったのです。マスコミも「危機感をあおる」という形で、あおりかたのうまいところは新聞・雑誌が売れたり、視聴率もあがったりしたという「瞬間風速がプラス」のところもあったんでしょうが、「嘘でした(あおりすぎました)」ということになったのでは、長期的に見るとマイナス面のほうが大きいようにぼくには思えました。
で、最初に紹介したところの「ヘイトクライム」なテキストがある画像なんですが(横書きにして「ハァ!?」とか「ゴルァ!!」とか入れるとそのまま2ちゃんねる風「便所の落書き」になりそうです)、
こんな言葉が投げつけられた
どこからそんなテキストを拾ってきたのかは皆目不明なのは置いておいて(創作が入っているとはぼくには思えませんが、匿名の手紙からの抜粋なら、その全文を読んでみたいとは思いました)、「補償の判決」と「第三水俣病事件」以前のテキストが、いったいこの中にはあるんだろうか、と少し考えてしまいました。